今朝の毎日新聞(大阪本社版)に、遠山啓さんのことが一面から二面へ続く長い記事として掲載されていて、驚いた。
一面のタイトルは「学びの可能性信じ」、副題「算数指導「水道方式」遺志継ぐ」となっていて、武蔵野市の小笠毅(おがさたけし)さん主宰の私塾「遠山真学塾」のことが紹介されている。二面のタイトルは「問いの意味知ろう」で、中ほどに「困難抱える子の灯台に」との見出しがある。小笠さんと遠山さんの出会いや水道方式のこと、遠山さんが著書『競争原理を超えて』で何を伝えたかったのか、それを小笠さんがいかに受け継ぎ実践しているかについて、取材をもとに丁寧に書かれていて、大変興味深く読んだ。
記事を書いたのは東京科学環境部の須田桃子氏とのこと。2001年入社とあるので、若い人なのだろう。遠山さんの遺志を伝える良記事をまとめていただいたこと、また異例とも思える扱いで掲載していただいた編集部?にも、一ファンとして感謝したい。私と同じ想いでこの記事を読んだ読者も全国に大勢いただろうと思う。
ただ一点、水道方式について、「一般的・典型的な易しい問題を習得してから、特殊で難しい問題に進む」と書かれているが、これは正確さを欠く表現である。一般的・典型的な問題が易しいとは限らず、特殊な問題が難しいとは限らないからである。このことについては、『水道方式とはなにか』(太郎次郎社、1980)において詳述されているが、あくまで、典型的な問題から「型くずれ」な問題へという流れであって、決して易しい問題から難しい問題への流れではない。
さて、このブログでは、4年ほど前におこった「かけ算の順序論争」にかかわって遠山さんの考えが誤って流布されているとの想いから、以下の記事を三連投したことがある。
遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在)
遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その2:助数詞廃止論)
遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その3:水道方式)
上記(その1)の冒頭に書いたように、「遠山は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、教育上の観点からも明確に反対していた」ことを伝えたかったからである。実際、遠山さんは、その著書において繰り返し、かけ算の順序を固定してはならないと力説している。
私の記事では著書から引用しながらそのことを解説したのであるが、私のこの過疎ブログとしてはめずらしく多くの賛同を集めたものの、その後、東北大黒木玄さんの「かけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきである」と題する記事をきっかけに、「かけ算の順序に意味があるという主張が生まれた原因の一端は遠山啓にある」とする考えが広まったようだ。
黒木さんの記事はとても長いので、全体を再読する気力はないが、その記事内を「satsuki_327」で検索すると、私のブログ記事が2回にわたり引用されている。最初の引用は、「●2. 「1あたりの数」×「いくつ分」の順に書かないと誤りとするのは誤り」にある。ここでは、
と書いて、
と結論されている。
要する、遠山さんは、「かけ算の順序を固定してはならない」とは主張したが、かけ算の順序に<意味がある>という考えを捨ててはいなかった事が指摘されている。私は、ここで述べられていることは遠山さんの考えとしては正確さを欠くものの、黒木さんの指摘そのものは正しく、私の記事に不足があると思い、一旦は補足エントリをあげようと考えた。その辺りのことについては、funaboristaさんのブログ『お花畑めざして』の「かけ算の順序」と題する記事とコメント欄を参照いただきたい。
また、黒木さんの記事にある「遠山啓さんはこの不必要な特殊ルールを捨て去る段階までの道筋を示していてかつ広める努力をしていたでしょうか?」の部分については、遠山さんが1979年70歳にして志半ばで亡くなったことを考慮すべきだと考えていた。
ところでfunaboristaさんのブログ記事にコメントしていた頃、いろいろと気になることがあった。一つは、黒木さんの二つ目の引用(A12)において次のように書かれていることを巡っての問題である。
ここでは遠山さんが、あたかも式の順序にまったく意味はないと主張しているかのように誤って受け取られかねない書き方になっていて、最初の引用にあった黒木さんの遠山評とはズレがあるように感じられる。実際はどうかというと、この「順序」と「意味」にかかわって遠山さんは二つのことを分けて考えていた。
A(順序):「交換法則はまだ教えていないから、それを使ったのはバツだなどというのは、教える側の得手勝手にすぎない。交換法則など子どもが自分で発見することはいくらでもあるのだ。」(『量とは何かI』、太郎次郎社、1978、p116)
B(意味):かけ算を「1あたりの数」×「いくつ分」を求めるものと認識するとしても、どちらが「1あたりの数」になるかは考え方次第で、自明ではない。(同上、p114-120)
この二つのことから、式の表現としては、意味と順序の組み合わに4通りあることが前提とされていることに気づく。
1)「1あたりの数 a」×「いくつ分 b」
2)「1あたりの数 b」×「いくつ分 a」
3)「いくつ分 a」×「1あたりの数 b」
4)「いくつ分 b」×「1あたりの数 a」
その上で遠山さんは、子どもが書いた式がそのどれであるかは自明ではなく、どれでも正解で良いのだと主張している。だから、教師が自分の考えた式の順序と違うからといってバツを付けるのは、教師不審・算数嫌いを招くものだときびしく批判してもいる。まずこの点はきちんとおさえておく必要がある。
一方で注意すべきは、「どれであるかは自明でない」は、「そのどれでもない」ということを意味する訳ではなく、ましてや「(順序に)意味がない」ということを意味する訳でもないという点である。遠山さんは、こどもが書いた式の順序にその子なりの論理があることを大切に考えていた。たとえば、あるかけ算の問題で、式を「4×6」と書いた子と「6×4」と書いた子の頭の中では、きっとなにがしかの異なる理路が辿られた筈だと、遠山さんは考えた。まさにこの点が遠山哲学の真骨頂なのである。そのことに気づかずに、安易に黒木さんの遠山批判に納得してしまったことを、今では恥じている。ファンだからといって、当人を良く理解しているとは限らないことの実例だ(だから、この記事も真に受けてはならない)。
そして、それぞれの理路を上記4つのどれかに関連付けてやることで割り算の理解が容易になると、遠山さんは考えた。特に、速度や濃度(内包量)を求める連続量の割り算とかけ算の関係を理解させるには欠かせないと考えていた。このことは私の過去記事の(その3)にも書いたが、おそらくこうした遠山さんの発想を受けて、「数教協」の中に意味と順序にこだわった教育法が広まったものと思われる。しかしそれが、式の順序が違うからといってバツをつけることに繋がっているとすれば、それは、遠山さんの<精神>とは全く相容れない教育法であると思う。私自身は「数教協」と何らのかかわりもないので、内情を知る由もなく、これ以上の論評はできない。
ともかくも、子どもの書いた式の順序には確かにその子なりの<意味>があり、教育上そのことを大切に考えるべきだと遠山さんが考えていたことは貴重だ。そのことこそが、私が遠山ファンであることを止めない理由と言ってもいい。私の過去記事(その1)にコメントいただいたシカゴ・ブルースさんのブログ記事「割り算から見た量(1)――内包量と外延量」に「表現された式には、子供や教師それぞれが頭の中でたどった個々の問題解決過程が反映される」と書かれている通りである。 また、毎日新聞の二面の記事のタイトル「問いの意味知ろう」もこのことを表現していて、遠山さんにふさわしい良く練られたタイトルだと思う。
という次第で、冒頭に引用した私の過去記事に特に訂正の必要性を感じなくなっていたのだが、今回の記事をもって補足としたい。
関連記事:数学は、ある種の言語についての学である(2009/1/13)
ただしこれは、あまり深く考えずに書きつらねたもの
毎日新聞の記事にも引用されている『競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社、1976)は、今の時代にますます必要とされる考え方を指し示していている古典的名著だと思うので、ぜひ多くの方々に読んでいただきたい。
なお、「村野瀬玲奈の秘書課広報室」に、このブログとしては不思議と異色のエントリー「かけ算の順序 (ブログ「お花畑めざして」から) (訂正・追記あり)」が掲載されているが、村野瀬さんの(私として好ましい)個性だと思った次第。これ以上訂正を追記する必要はありません。
一面のタイトルは「学びの可能性信じ」、副題「算数指導「水道方式」遺志継ぐ」となっていて、武蔵野市の小笠毅(おがさたけし)さん主宰の私塾「遠山真学塾」のことが紹介されている。二面のタイトルは「問いの意味知ろう」で、中ほどに「困難抱える子の灯台に」との見出しがある。小笠さんと遠山さんの出会いや水道方式のこと、遠山さんが著書『競争原理を超えて』で何を伝えたかったのか、それを小笠さんがいかに受け継ぎ実践しているかについて、取材をもとに丁寧に書かれていて、大変興味深く読んだ。
記事を書いたのは東京科学環境部の須田桃子氏とのこと。2001年入社とあるので、若い人なのだろう。遠山さんの遺志を伝える良記事をまとめていただいたこと、また異例とも思える扱いで掲載していただいた編集部?にも、一ファンとして感謝したい。私と同じ想いでこの記事を読んだ読者も全国に大勢いただろうと思う。
ただ一点、水道方式について、「一般的・典型的な易しい問題を習得してから、特殊で難しい問題に進む」と書かれているが、これは正確さを欠く表現である。一般的・典型的な問題が易しいとは限らず、特殊な問題が難しいとは限らないからである。このことについては、『水道方式とはなにか』(太郎次郎社、1980)において詳述されているが、あくまで、典型的な問題から「型くずれ」な問題へという流れであって、決して易しい問題から難しい問題への流れではない。
さて、このブログでは、4年ほど前におこった「かけ算の順序論争」にかかわって遠山さんの考えが誤って流布されているとの想いから、以下の記事を三連投したことがある。
遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在)
遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その2:助数詞廃止論)
遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その3:水道方式)
上記(その1)の冒頭に書いたように、「遠山は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、教育上の観点からも明確に反対していた」ことを伝えたかったからである。実際、遠山さんは、その著書において繰り返し、かけ算の順序を固定してはならないと力説している。
私の記事では著書から引用しながらそのことを解説したのであるが、私のこの過疎ブログとしてはめずらしく多くの賛同を集めたものの、その後、東北大黒木玄さんの「かけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきである」と題する記事をきっかけに、「かけ算の順序に意味があるという主張が生まれた原因の一端は遠山啓にある」とする考えが広まったようだ。
黒木さんの記事はとても長いので、全体を再読する気力はないが、その記事内を「satsuki_327」で検索すると、私のブログ記事が2回にわたり引用されている。最初の引用は、「●2. 「1あたりの数」×「いくつ分」の順に書かないと誤りとするのは誤り」にある。ここでは、
この引用文を読む限りにおいて、遠山啓さんは
a×b という式を書くときには
a は「1あたりの数」で b は「いくつ分」でなければいけない
という特殊ルールを捨てていないようです。
a×b という式を書くときには
a は「1あたりの数」で b は「いくつ分」でなければいけない
という特殊ルールを捨てていないようです。
と書いて、
遠山啓さんはこの不必要な特殊ルールを捨て去る段階までの道筋を示していてかつ広める
努力をしていたでしょうか?もしもしていなかったとすれば、遠山啓もこの件では批判さ
れなければいけない当事者の一人だということになると思いました。
算数教育の目標は上で述べたような特殊なルールを子どもに教え込むことではなく、
普遍的に通用する算数の考え方を子どもに身につけてもらうことです。
何度でも繰り返しますが、ここで問題になっている
a×b という式において a は「1あたりの数」で b は「いくつ分」を意味する
というルールは普遍的に通用する考え方ではありません。
このような特殊ルールを子どもに強制してはいけません。
それではこの偏狭さの原因はどこにあるのか? その原因のひとつは
「子どもの理解度を掛け算の式の順序の書き方を見て判定しようとすること」
にあるように思われます。 (実際には単なる誤解が原因の場合も多いようですが。)
努力をしていたでしょうか?もしもしていなかったとすれば、遠山啓もこの件では批判さ
れなければいけない当事者の一人だということになると思いました。
算数教育の目標は上で述べたような特殊なルールを子どもに教え込むことではなく、
普遍的に通用する算数の考え方を子どもに身につけてもらうことです。
何度でも繰り返しますが、ここで問題になっている
a×b という式において a は「1あたりの数」で b は「いくつ分」を意味する
というルールは普遍的に通用する考え方ではありません。
このような特殊ルールを子どもに強制してはいけません。
それではこの偏狭さの原因はどこにあるのか? その原因のひとつは
「子どもの理解度を掛け算の式の順序の書き方を見て判定しようとすること」
にあるように思われます。 (実際には単なる誤解が原因の場合も多いようですが。)
と結論されている。
要する、遠山さんは、「かけ算の順序を固定してはならない」とは主張したが、かけ算の順序に<意味がある>という考えを捨ててはいなかった事が指摘されている。私は、ここで述べられていることは遠山さんの考えとしては正確さを欠くものの、黒木さんの指摘そのものは正しく、私の記事に不足があると思い、一旦は補足エントリをあげようと考えた。その辺りのことについては、funaboristaさんのブログ『お花畑めざして』の「かけ算の順序」と題する記事とコメント欄を参照いただきたい。
また、黒木さんの記事にある「遠山啓さんはこの不必要な特殊ルールを捨て去る段階までの道筋を示していてかつ広める努力をしていたでしょうか?」の部分については、遠山さんが1979年70歳にして志半ばで亡くなったことを考慮すべきだと考えていた。
ところでfunaboristaさんのブログ記事にコメントしていた頃、いろいろと気になることがあった。一つは、黒木さんの二つ目の引用(A12)において次のように書かれていることを巡っての問題である。
理解度を測るテストで 5×3 にバツを付けた教師は、子どもが
掛け算の順序をどのように書いたかで理解度を測っていることになります。
5×3 にバツを付けることが批判されているのはまさにその点なので
理解度を測るためのテストだから問題ないという反論は無意味です。
そのような意見を今頃述べている人はこの議論では周回遅れな感じです。
このQ&Aの上の方でも強調しておいたように、
子どもが掛け算の式の順序をどのように書いたかを見て
理解度を測ろうとすることがこの問題の根源なのです。
たとえば、さつきのブログ「科学と認識」では、
どちらの数を「1あたりの数」とするかは考え方によるので、
掛け算を「1あたりの数」×「いくつ分」の順序で書くルールのもとであっても、
式の順序を見ただけで、どちらが「1あたりの数」であるかを正しく理解しているか
を判定することは不可能であるということが、
遠山啓を引用することによって指摘されています(2009年8月11日)。
掛け算の順序をどのように書いたかで理解度を測っていることになります。
5×3 にバツを付けることが批判されているのはまさにその点なので
理解度を測るためのテストだから問題ないという反論は無意味です。
そのような意見を今頃述べている人はこの議論では周回遅れな感じです。
このQ&Aの上の方でも強調しておいたように、
子どもが掛け算の式の順序をどのように書いたかを見て
理解度を測ろうとすることがこの問題の根源なのです。
たとえば、さつきのブログ「科学と認識」では、
どちらの数を「1あたりの数」とするかは考え方によるので、
掛け算を「1あたりの数」×「いくつ分」の順序で書くルールのもとであっても、
式の順序を見ただけで、どちらが「1あたりの数」であるかを正しく理解しているか
を判定することは不可能であるということが、
遠山啓を引用することによって指摘されています(2009年8月11日)。
ここでは遠山さんが、あたかも式の順序にまったく意味はないと主張しているかのように誤って受け取られかねない書き方になっていて、最初の引用にあった黒木さんの遠山評とはズレがあるように感じられる。実際はどうかというと、この「順序」と「意味」にかかわって遠山さんは二つのことを分けて考えていた。
A(順序):「交換法則はまだ教えていないから、それを使ったのはバツだなどというのは、教える側の得手勝手にすぎない。交換法則など子どもが自分で発見することはいくらでもあるのだ。」(『量とは何かI』、太郎次郎社、1978、p116)
B(意味):かけ算を「1あたりの数」×「いくつ分」を求めるものと認識するとしても、どちらが「1あたりの数」になるかは考え方次第で、自明ではない。(同上、p114-120)
この二つのことから、式の表現としては、意味と順序の組み合わに4通りあることが前提とされていることに気づく。
1)「1あたりの数 a」×「いくつ分 b」
2)「1あたりの数 b」×「いくつ分 a」
3)「いくつ分 a」×「1あたりの数 b」
4)「いくつ分 b」×「1あたりの数 a」
その上で遠山さんは、子どもが書いた式がそのどれであるかは自明ではなく、どれでも正解で良いのだと主張している。だから、教師が自分の考えた式の順序と違うからといってバツを付けるのは、教師不審・算数嫌いを招くものだときびしく批判してもいる。まずこの点はきちんとおさえておく必要がある。
一方で注意すべきは、「どれであるかは自明でない」は、「そのどれでもない」ということを意味する訳ではなく、ましてや「(順序に)意味がない」ということを意味する訳でもないという点である。遠山さんは、こどもが書いた式の順序にその子なりの論理があることを大切に考えていた。たとえば、あるかけ算の問題で、式を「4×6」と書いた子と「6×4」と書いた子の頭の中では、きっとなにがしかの異なる理路が辿られた筈だと、遠山さんは考えた。まさにこの点が遠山哲学の真骨頂なのである。そのことに気づかずに、安易に黒木さんの遠山批判に納得してしまったことを、今では恥じている。ファンだからといって、当人を良く理解しているとは限らないことの実例だ(だから、この記事も真に受けてはならない)。
そして、それぞれの理路を上記4つのどれかに関連付けてやることで割り算の理解が容易になると、遠山さんは考えた。特に、速度や濃度(内包量)を求める連続量の割り算とかけ算の関係を理解させるには欠かせないと考えていた。このことは私の過去記事の(その3)にも書いたが、おそらくこうした遠山さんの発想を受けて、「数教協」の中に意味と順序にこだわった教育法が広まったものと思われる。しかしそれが、式の順序が違うからといってバツをつけることに繋がっているとすれば、それは、遠山さんの<精神>とは全く相容れない教育法であると思う。私自身は「数教協」と何らのかかわりもないので、内情を知る由もなく、これ以上の論評はできない。
ともかくも、子どもの書いた式の順序には確かにその子なりの<意味>があり、教育上そのことを大切に考えるべきだと遠山さんが考えていたことは貴重だ。そのことこそが、私が遠山ファンであることを止めない理由と言ってもいい。私の過去記事(その1)にコメントいただいたシカゴ・ブルースさんのブログ記事「割り算から見た量(1)――内包量と外延量」に「表現された式には、子供や教師それぞれが頭の中でたどった個々の問題解決過程が反映される」と書かれている通りである。 また、毎日新聞の二面の記事のタイトル「問いの意味知ろう」もこのことを表現していて、遠山さんにふさわしい良く練られたタイトルだと思う。
という次第で、冒頭に引用した私の過去記事に特に訂正の必要性を感じなくなっていたのだが、今回の記事をもって補足としたい。
関連記事:数学は、ある種の言語についての学である(2009/1/13)
ただしこれは、あまり深く考えずに書きつらねたもの
毎日新聞の記事にも引用されている『競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社、1976)は、今の時代にますます必要とされる考え方を指し示していている古典的名著だと思うので、ぜひ多くの方々に読んでいただきたい。
なお、「村野瀬玲奈の秘書課広報室」に、このブログとしては不思議と異色のエントリー「かけ算の順序 (ブログ「お花畑めざして」から) (訂正・追記あり)」が掲載されているが、村野瀬さんの(私として好ましい)個性だと思った次第。これ以上訂正を追記する必要はありません。