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Channel: さつきのブログ「科学と認識」
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マレーネ・ディートリッヒの『花はどこへ行った』

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 ブログを放置している間、いろいろあった。昨年は「憧憬の小泉文夫のインド」へも行った。山村にあるコテージでの夕食後、同行者6人でハイビスカスの咲く庭に椅子とテーブルを運び出して酒もりをしているとき、どういった成り行きでそうなったか思い出せないが、40代後半~50代前半のインド人3人と私とで、なつかしのフォークソング
『Where have all the flowers gone』を歌った。

 そういえばピート・シーガーは最近亡くなったんだよね、と私。インド人3人も、そうだそうだ1月だよと、私より詳しい。日本から同行の20代の若者二人は、この歌も作者のことも知らないので、おいてけぼりだ。それにしても、日本人でピートシーガーのことを知っているのは、私の世代がギリで、だいたい60代以上だと思うのだが、50歳前後のインド人が3人とも良く知っているのは少し意外だった。

 帰国後にいろいろ調べて、その謎は少し解けた。かつてインドにはHemanga Biswas (1912-1987)という、国民的人気を博したフォークシンガーがいた。土着の民謡をベースにしながら時折の社会問題に題材をとった歌を創り、社会変革に向けた運動の場で人々を鼓舞するプロテストソングをベンガル語で歌っていた。「花はどこへ行った」や「We shall overcome」などもベンガル語に訳して歌っていたので、貧しくてレコードを買えない多くのインド人もこれらの歌やピートシーガーのことを知ることになった。彼は、ほんとうに多くのインド人から敬愛されていたので、国営放送でも生誕100周年の長時間の記念番組が企画されたほどである。
 彼は「ヒロシマ」にモチーフを得た「かもめの歌」というベンガル語の歌を創って、ことある毎に歌っていたのだが、没後にピート・シーガーがこの歌を聴いて、英訳の歌を自分に歌わせてほしいと願い出るため、数年前にインドの遺族のもとを訪ねて来た。娘のRongili Biswasは経済学者だが、父の音楽的遺産を後世に残すために自ら歌手となって活動している、等々。

 この歌の成立過程とその後の展開については、NHK-BSの番組『花はどこへ行った♫ 静かなる反戦の祈り』に詳しい。

 ものすごく端折って書くと、レッドパージの嵐吹きすさぶ1950年代前半、ピート・シーガーは非米調査委員会に召喚されて表だった活動ができなくなる。失意の中、ショーロホフの『静かなドン』を読み、その中に出てくるコサックの民謡をもとに、飛行機の中で3番までの歌詞とメロディーが20分で出来たというのが1955年のこと。その後民族音楽研究家のジョー・ヒッカーソンが大学院生の頃に4番と5番を付け加えて、より鮮明な反戦歌として完成された。著作権が登録されたのは1961年らしい。

 さて、この番組の中で、マレーネ・ディートリッヒがこの歌を初めて外国語で歌ったと紹介されている。YouTubeには1962年デュッセルドルフにてドイツ語版『花はどこへ行った』(Sag Mir Wo Die Blumen Sind)を歌っている動画がアップされている。


 1901年、ベルリンに生まれたマレーネ。20年代にはドイツ映画の女優として名をなし、30年代にアメリカへ渡ってハリウッド女優として成功をおさめる。その頃全権を掌握したヒトラーはマレーネをドイツへ呼び戻そうとしたが、彼女はナチスに反発してそれを拒否し、アメリカの市民権を得た。第二次大戦が始まると志願してヨーロッパ戦線に飛び込み、連合軍兵士の慰問活動を積極的におこなうようになる。そのため、ドイツ人の多くは彼女を祖国を捨てた裏切り者と見なすようになり、1960年にドイツ公演のために帰国した際には激しい「帰れ」コールのデモがおこった。マレーネがこの歌に巡り会ったのは、その頃ということになる。

 彼女がドイツでコンサートを開く際に、『花はどこへ行った』をドイツ語で歌うことは強いひんしゅくを買った。特にメディアはドイツ人に対する挑発だとして厳しく警告し、歌うことをやめさせようとした。それにもめげず、彼女はこの歌をドイツ語で歌い続けることになる。彼女にとってはドイツ語で歌うことにこそ意味があった。ついに、マレーネのドイツ語版『花はどこへ行った』のレコードは記録的なヒット。やがて彼女は、かつてドイツが侵略した周辺諸国へも足をはこび、『花はどこへ行った』をドイツ語で歌うようになる。

 NHKの番組で「貴重な映像が残っている」として紹介されているのは、1963年ストックホルムでのショーに出演した時のもの。このときの様子は、YouTube にアップされている"Marlene Dietrich live in Stockholm" でこの歌を歌う前の華やかな演し物から見ることができる。



 一転、この動画の23分35秒あたり、衣装を替えてカーテンから現れたマレーネは、それまでのにこやかさとはうって変わって、明らかに緊張し、表情はこわばっている。それは、逆境の中で使命感にかられた者の見せる緊張のように思える。この後『リリー・マルレーン』を歌って、『花はどこへ行った』は27分15秒あたりから聴くことができる。

 このことにかかわってNHK-BSの番組は、五木寛之氏がコペンハーゲンでマレーネがドイツ語の『花はどこへ行った』を歌ったのを聴いた時の様子を、彼のエッセイ『ふりむかせる女たち』の一節を小室等氏が切れ切れに朗読するかたちで紹介している。1965年のことらしい。

 長くなるが、『ふりむかせる女たち』から引用しよう(黒文字はNHKの番組で朗読された部分)。

 「男性用語では、カブリツキという。イタリアのビッグ・バンドが引っこむと、黒いドレスを着た大女優が出てきた。これが実に何とも、見事なバストと素敵な脚。声は例のしゃがれ声ですが、これは若い時からそうだったらしい。その目つきの可憐さ、身のこなしの仇っぽさたるや、また抜群。
 <ハニーサークル・ローズ>だの<ベッドの中で煙草を喫うのはいけないわ>などというスローバラードの後で、十八番の<愛の賛歌>。そして最後に<花はどこへ行った?>をドイツ語で歌いました。
 ぼくは本当を言うと、一種の不安にかられて、その歌を聞いていたのです。戦後二十年たったとはいえ、コペンハーゲンの人々の胸には、まだまだ第二次大戦の記憶が残っているように思われたからでした。
 第二次大戦中、コペンハーゲンの街は、ドイツ軍の厳しい占領下にあったのです。その当時のデンマーク人のレジスタンスは、いろんなエピソードとなって残っています。例えば、こんな話があります。
 ドイツ軍が、市内のユダヤ人はすべて胸に黄色い星のマークをつけること、という布告を出した時、まっ先に黄色い星のマークをつけたのはデンマーク国王でした。そして、コペンハーゲンの全市民がそれにならって黄色い星を胸につけ、街をデモったというのです。
 たぶん、これは一種の美談のようなものであり、事実はもっと複雑だったでしょう。しかし、そんなエピソードの生まれる背景が、存在したことは疑えません。
 戦後二十年の間に、何もかも忘れて、恩讐のかなたに安心立命する日本人とは、わけがちがいます。最初の拍手に、すでにその不安は感じられました。立ち上がって熱狂しているのは、ほとんどアメリカ人観光客老夫婦なのです。むしろ冷ややかな空気さえ、客席には漂っていました。
 最後のナンバーをディートリッヒがドイツ語で歌い出した時、ぼくが軽い緊張感をおぼえたのは、そのためです。
 彼女が歌い終わる、そして短いエンディング。ディートリッヒは頭をたれてスポットの中に動きません。不気味な短い沈黙。その時、ぼくの前の客席で、女の子を連れた若いデンマーク陸軍の兵隊が、ヒクヒクとすすり泣きの声をもらすのがきこえました。隣の太ったマダムがハンカチを旦那に渡します。すすり泣きの声が、あちこちで起こりました。そして、バラバラと拍手のイントロが客席の隅から拡がり、それは次第に大浪のような拍手に変わっていきました。客たちは立ちあがって口々に何か叫びの声をあげていました。
 その時のディートリッヒの顔に走ったよろこびの色を、ぼくは忘れることができません。歌い終わって、拍手が始まるまでの短い沈黙の間、彼女は全く息をしていないように思われました。顔の筋肉はこわばり、唇は挑戦的に噛みしめられ、手は固くにぎりしめられていたのです。彼女は、おびえている十代の少女のようでした。それが、拍手が湧き起こった時、一瞬のうちに全身がゆるんだのです。少し猫背で、手をだらりとさげ、顔のしわがはっきりとライトの中に浮び上がりました。そこには、もう、さっきまでのみずみずしい小娘のようなディートリッヒはいませんでした。
 ほんの何秒間かですが、人生の大半を終わった老婆がぼくの目の前に、こつぜんと現れたのです。アンコールの声が高まった時、彼女はすでに立ちなおっていました。若い鳩のように胸を張り、はにかんで微笑をふりまきながら、ディートリッヒはピアノに合図を送ります。
 そこには永遠の大女優、マレーネ・ディートリッヒが厳然と輝いていました。
 その晩のことを、ぼくは今でも手にとるように思い出します。カブリツキに座った幸運もあるでしょう。しかし、あの、緊張が瞬間的にほどけた時のディートリッヒの顔に、ぼくはやはりドイツ人の心の中に残っている戦争の影を見たような気がしたのです。」

 『ふりむかせる女たち』には、「のちに人気絶頂のジョーン・バエズがこの歌をレコーディングした時も、ディートリッヒに敬意を表してか、ドイツ語で歌っていました。」と書かれている。

 世界中の人々に「脚線美のひと」として記憶され、セックスシンボルとまで評されたマレーネ・ディートリッヒの、たった一人の闘いの歴史が浮かび上がってきたような気がする。

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