このブログで度々言及する武谷三男さんは「(自分の信じる)一つの認識論を主張する人には、その認識論をあらゆる局面にわたって馬鹿正直に適用する」ことを求め、世の中に流布している間違った認識論はその過程で淘汰されると主張した。これはなにも、哲学的な意味における認識論に限られることではなく、人々が普段の生活実践の指針として持っている信条のようなものにも当てはまるであろう。
人生は選択の連続である。日々の暮らしの中でおこるいろいろと難しい判断をせまられる局面で何を選択するか、どう振る舞うかといったことで悩むとき、私は意識的に日本国憲法の精神を指針とするよう努めることにしている。そのことは既に次の二つの記事に書いている。
「護憲派はパレスチナ問題をどう考えるか」(2009年1月26日)
「日本国憲法の精神は、日々の実践のうちに我が身に宿る」(2012年5月3日)
ここであらためてふれるのは、憲法違反の「平和安全法制整備法案」をなんとしても阻止したいとの願いからである。それが憲法違反であることは、右派とみられた論客も含めて大多数の憲法学者が違憲と認め、国会の論戦をみても、政府側の答弁が論理破綻していることはあまりにも明白で、もはや議論の余地はないように思える。
衆院で強行採決されてしまったが、各種世論調査をみてもこれを撤回せよとの声は今や国民の中で多数派である。先の総選挙では争点から隠され、自民党の絶対得票率は、比例代表選挙で16・99%、 小選挙区で24・49%(注1)に過ぎなかった訳で、議会で多数を占めているからからといってゴリ押しして良い道理はない。
法案の審議が参院へ送られた今、我々にできることは、日々の議論を通じてこの法案が紛れもない戦争法案であることを広く認識してもらい、圧倒的多数の反対派を結成し、そのことを可視化し、その声を国会へ届ける努力を続けるほかないであろう。
今後の見通しにとっての明るい材料は、今まで政治的な発言を控えていた多くの人々が「反対」の声をあげていることである。一方で、国民のおよそ3割ほどが強固な賛成派として存在しているようにみえる。私は、これらの人々の一部でも説得できないかぎり法案の撤回は望み得ないと考えている。
経験からも、今まで政治に関心を持たなかった人々を説得するのは、さして困難なことではないと言える。身のまわりにそうした人しか居ないとすれば、幸いである。しかし、私は違う。私のまわりの同僚や友人や親族には、この「強固な賛成派」が大勢居て、四面楚歌というほどではないにしても、まるで彼らこそが多数派であるかのように錯覚しそうになる。
あるとき、学生同席の酒の場で、同僚から百田尚樹の『永遠の0』がすばらしいと薦められて、それは最悪だと応えて険悪な雰囲気になり、場がしらけてしまったことがある。その同僚から指導をうけている院生が「辺野古で反対運動しているのは本土から行っている人たちだけらしいね」と発言しているのも聞いたことがあって、影響を受けているのかもしれないと思った。再び『永遠の0』について話す機会があったら、毎日新聞に連載されている保阪正康氏の「昭和史のかたち」の8月8日の記事『特攻に反対した隊長』を紹介したいと思う。
読売新聞の熱心な読者である友人の一人からは、かつて私が朝日新聞を購読していたのを、偏向報道に荷担するものと批判されたことがある。そのときは、「今は毎日新聞をとっている」とお茶を濁したが、次に会う機会があれば、本年4月29日付読売新聞に掲載された「昭和の戦争に対する渡辺恒雄氏の考え」や、中曽根康弘元首相の8月7日の寄稿を読んだであろうから、感想を聞いてみたい。
最悪なのは、私の叔父の一人が熱心な「成長の家」の信者という事態。息子(つまり私の従兄弟)の一人は大学を中退して「成長の家」の本部勤務の道へ進み、皇居前の清掃活動から始めて、今は幹部クラスになっているとのこと。この従兄弟とはもう20年ほど会っていないが、郷里へ帰省すると叔父とは必ず会って、酒の席ではその場に相応しくない政治的な話をすることも度々であった。そうした際に私は、天皇夫妻の平和主義者的な言動のいくつかを紹介して対話の緒とすることも多い。
天皇制は「サンフランシスコ体制」によって温存が確約されているのであろうから、天皇としてはこれに反する(左右の)動きに敏感にならざるを得ない。今は右からの「見直し論」が活発であることから、天皇として平和主義者を装う他ないのかもしれない。そうではなく、天皇夫妻は、根っからの(純粋な)平和主義者であるのかもしれない。いずれであったとしても、天皇制そのものが差別構造の頂点をなしているのであり、そうした差別構造の存在は、この世界で戦争がくり返されることと無縁ではない。だから、叔父との対話で天皇夫妻の言動を好意的に採りあげることに忸怩たる想いもするのである。だからといって、この叔父との間に他にどんな対話の緒があるだろうか。
渡邉恒雄氏や中曽根康弘氏の言動を好意的に採りあげるにしてもしかり。読売新聞の熱心な読者である友人と話を繋ごうとするとき、一歩、二歩後退しながらも、戦中派の意見に共に耳を傾けるといった共通の土俵を準備することは、この場合必要な作業であると確信する。この確信は、日本国憲法の理念を馬鹿正直に適用するという私の信念に由来する。
憲法が求めている日々の努力を惜しまないようにしよう。日本国民は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。どれほど主義・思想の異なる相手であったとしても話の全く通じぬエイリアンなのではない。人は変わり得る存在である。気に入らない者をバカ者扱いして議論の場から排除したりしないように努めよう。そうでなければ、私自身が、日本国憲法前文および「九条」の理念の普遍的価値とその実効性に、そもそも信頼を寄せていないということになる。「安保法案」の対案は日本国憲法の理念の堅持であると主張できなくなる。
たとえば、SEALDsの若者が小林よしのり氏と対談する企画に反対する意見を散見したが、余計なお世話だと思う。人はそれぞれの個人史につちかわれて百人百様の思想・信条、主義・主張、信念を持っに至っている筈だ。だからこそこの世界は刺激的で、冒険に満ちている。「その冒険に口を挟む権利は誰にもない」とまでは言わないが、寂しい発想だなと思う。日本国憲法の理念を馬鹿正直に適用しようと考える私は、心からそう思う。3割ほどの強固な賛成派の一部でも説得しようとの気概を示せないのであれば、最初から負けいくさである。少なくとも小林氏は、「強固な賛成派」でないどころか「安保法案」反対派であり、本丸は別のところにある。
(8月9日、長崎原爆記念日に記す)
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