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Channel: さつきのブログ「科学と認識」
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「ニセ科学撲滅運動」が「ニセ科学」に堕した5年

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 毎年3月11日になると、この日は東北の大震災で亡くなった大勢の方々を静かに悼む鎮魂の日なのだから、福島の原発事故のことをことさらに採りあげて反原発運動に利用するのはけしからん、みたいなことを言う人が湧いて出るようなのですが、そうした物謂いの多くが、まるで原発の過酷事故などなかったかのような言葉を吐き続けるのを日課としている人々から発せられているのをみると、やはりそれは、被災者に寄り添ったフリをしているだけなのだと思わざるを得ません。直接的にせよ間接的にせよ現実におこった悲しい出来事に接して私達が涙するのは、その悲しみを我が身に引き寄せつつ、本当に寄り添うことなどできないと知ってもいるからでしょう。それでももしかしたら、同じ悲しみが再びこの地上を襲うことのないようにという願いを共有することだけはできるのかもしれません。

 「おのれの過去を正しく語り得ぬ者は、それをくり返すがごとく罰せられる」という西洋の諺を思い出します。いろいろな事で私達がくり返し罰せられているとしたら、それはまさしく、自らの過去を正しく語り得なかったからに違いありません。私達は何を間違ったのか、誤りの本質は何だったのか、一つ一つの事実をつぶさに検証し、再び同じ過ちをくり返さないように努めることだけが、残された者として寄り添うことを許される唯一の道なのではないかと思います。

 一つ一つの事実をつぶさに検証するということは、自然科学に限らず社会科学や人文科学も含めた意味での科学の最も基本的な作法であるでしょう。私は、「科学的」とは「証拠をもとに何事かを語ろうとする姿勢・態度のこと」と定義します。全く荒っぽい定義なのできっと反論が多いことと思いますが、もちろん、証拠なしに語られる言説など無意味だと言いたいのではありません。例えばウィトゲンシュタインは、「哲学とは、さまざまな科学による証拠なしに真であると想定される、すべての原始命題である」と言ったそうで、私も、そこに哲学の真価があると考えています。ただ、証拠に基づかない、あるいは事実を蔑ろにするような物謂いは、「科学的」とはほど遠い態度であることだけは確かでしょう。

 この3月11日にこのようなことを書いているのは、他ならぬ「科学者」の中に、そうした科学に反する言説を流布している人々が少なからず居て、再び同じ過ちをくり返さないための努力に無視できない悪影響を及ぼしていると考えているからです。私がこの5年間をふり返って深くうなだれる出来事の一つが、まさに科学の啓蒙を率先して行ってきたグループの中に、そのような科学に反する潮流が生まれたことでした。この、科学の啓蒙を率先して行ってきたグループのことを「ニセ科学批判クラスタ」と呼ぶ人もいるようですが、彼らがおこなってきたことを、ここでは「ニセ科学撲滅運動」と呼ぶことにしましょう。

 正直に言えば、当初私はこのニセ科学撲滅運動を科学の啓蒙運動という側面から好意的に見ていました。その担い手達ついては、世にはびこる「科学を装った詐欺商法」と闘う正義の味方というほどの認識だったのです。私自身、実際に教え子や親類の中にそうした詐欺商法の餌食にされた者が出てきたので、現実問題として闘わざるを得ない局面もありました。ただしそれはあくまで詐欺商法との闘いであって、ニセ科学撲滅運動として取り組んだのではありません。スティーヴン・シェイピンの『科学革命とはなにか』(注1)を読んで、「社会の中で生かされている科学」という発想に拘りを持ち始めていた時期でした。その頃、このブログに疑似科学やニセ科学などについての雑感めいたものを書いたことがあり、それを読み返すと、この「運動」の中に何か危ういものを感じていたことを思い出します。

 このブログの「疑似科学」とはなにか」(2008年6月)に次のように書いています。

 そこで、「未科学」の段階にあるものに対していろいろな批判や助言がなされるが、中には、そうした批判や助言に耳をかさず、これで十分科学の域に達していると開き直るものがある。ここではそうした態度をとるものを「疑似科学」と呼ぶことにしよう。・・・・
 ・・・・
 ところで、こうしてみると、ある学説が単なる「未科学」であるのか「疑似科学」であるのかは、その外見だけから容易には判断できないことに気づくはずだ。その判断は、批判や助言にどのような態度で応じてくるかという視点から、その「行動」を通して次第に明らかになる性質のものである。科学と科学の成果を混同しないように注意しながら、科学は、静的存在ではなく、文化の一つの態様としての人の営為、もしくはある種の「態度」であるとの視点に立つなら、そう考えざるをえないのである。したがって、ある学説が「疑似科学」であるかどうかは第三者だけでいくら議論しても判らないことが多い。具体的な批判や助言はおおいになされる必要があるが、少なくとも特定の学説について第三者だけで議論する際には、「疑似科学」のレッテルを用いるに細心の注意が必要ということだ。・・・・

 そして最後を、「なお、ここでは「科学主義」を擁護する主張をしたが、そのうち「科学至上主義」を批判する論考をまとめる予定である」と書いて締めくくっています。そうしてまとめたのが、水俣病のこと(注2)でした。今まさに、水俣病の被害を拡大した過ちが、その過去を正しく語り得ぬ者達によって再びくり返されようとしているように思えます。

 私がニセ科学撲滅運動と決別するターニングポイントとなったのは、彼らの中から、福島の原発事故に際してSPEEDIが活用されなかったことを擁護する論調が一斉に湧き起こったときでした。SPEEDIの運用指針に反する行為を正当化する論拠の一つとして持ち出されたのがパニックを誘発するからというものでしたが、どのような証拠を基にそうしたことを主張しているのか、全く理解不能でした。

 前回の記事に書いたように、パニックを避けるために一番やってはいけないことが情報の秘匿や制限であることは、福島の原発事故がおこるよりずっと前からの、心理学の集団実験などをもとにした専門家の一致した見解です。静岡大学防災総合センターの小山真人さんが「パニック神話に踊らされる人々 福島原発災害にまつわる不当な情報制限」と題する記事を公開されていることを最近知りましたが、必読です。

 同じことはメルトダウンについての楽観論の流布についても当てはまります。事故直後、停止した原子炉に海水を注入して冷却する努力が続けられていて、それがどれくらい功を奏しているのかよく分からない段階で、外部の誰にも確実なことが言えなかったのは事実でしょう。しかし、メルトダウンが今そこにある危機であったことは、1979年のTMI事故のことを少しでも知っている者にとっては常識的なことだった筈です。にもかかわらず、このときもまたパニックを誘発することへの懸念が語られました。

 例の「メルトダウンじゃないだす」発言を巡るcavu311さんのこちらのTogetterを読むと、まさにこれは私の定義する「疑似科学」よりもタチの悪い、「ニセ科学」そのものです。科学にとって言葉の定義は一義的に重要で、危機的状況下で定義の曖昧な言葉を用いてならないのはなおさらでしょう。にもかかわらず、判断を誤ったことの言い訳として、定義のはっきりしない言葉だから云々というのですから、開いた口が塞がりません。今でも彼らは、「炉心溶融とメルトダウンとmeltdown は違う」と主張しているようですが、TMI 原発事故を総括 したアメリカの専門家に、これを英語でどう伝えるのか知りたいところです。

 福島では、大熊町、双葉町、浪江町を中心に帰還困難区域があり、その周囲には居住制限区域があり、さらに避難指示解除準備区域があり、今も全県で9.9万人ほどが避難生活を余儀なくされているとのことです。それはもちろん、原発事故によってばらまかれた放射性物質による被曝が人体に有害であり、危険であることがわかっているからで、そのことによって避難生活を余儀なくされていることは原発事故によるまぎれもない実害です。

 しかし、9.9万人の中には避難指示がなされなかった区域から自主的に避難している人々も含まれており、そうした人々に対するケアや保障はほとんどなされていないのが実情です。しかるに、現状を正当化して、本来不必要な避難であり、そうした不幸の一切は被曝の不安を煽って反原発運動に利用しようとしている勢力のせいであると主張している科学者達がいます。ほんとうにそうでしょうか。

 日本の放射線防護の法的根拠となっているICRP勧告の防護基準が、研究の進展とともに引き下げられてきた歴史を持つことは、古くは武谷三男編『原子力発電』(岩波新書、1976)にもまとめられている通りです。結果的に、現在の一般公衆の追加被曝の限度は医療被曝を除いて年1mSv と定められています。これは、科学の不確かさからくる安全率を見こんだ値と解すべきですが、だからといって、それを含めた全体が科学の成果である訳ですから、その安全率を取っ払って良いことにはなりません。福島の汚染地域に住む人々だけが、安全率が取っ払われた環境に甘んじなければならない科学的な根拠など存在しません。

 きれいに除染された場所の空間線量が自然の放射線レベルに下がったのを根拠に、気をつけて生活したら何も問題ないと、気をつけて生活することを強いていることに無頓着でいられるのもまた、寄り添ったフリをしているに過ぎないからなのでしょう。野生のイノシシの肉を食べたり、山野でキノコを採って食べたりした人の中にWBC検査で突出して高い内部被曝をした人がみつかったりしたのですが、ここで、宍戸俊則(shunsoku2002)さんのTwitterの、本年月5日の呟きから引用しておきます。

承前。 torii氏にとっては重要でないのかもしれないが、私にとって、そして多くの被害者にとって重要なことは「原状復帰が可能かどうか」だ。「原状」には、山野に分け入り山の幸を取ったり、「タラの芽」を栽培して収穫し、現金収入を得ることも含む。  

 さらに、「原状」には、中高年齢者の家に子どもが孫を遊びに連れてくることや、収穫した山の幸を「おすそ分け」と称して隣近所に配ったり、この家に行き、孫たちと一緒に山の幸を食べることも含まれる。 勿論、放射影物質の含有量計測などなしで、だ。 

 これは決して贅沢な要求などではなく、ごくまっとうな当然の願いであると思います。

 福島の原発事故をきっかけに、原発こそが最大のニセ科学であったことに気づいた人も多かったのではないでしょうか。ニセ科学撲滅運動がそのことを無視し続けてきたのは大変奇妙なことです。なぜだか私にもよくわからないのですが、「科学」というものはその内在的性質からして政治から無縁の特権的存在であるという幻想が彼らを支配しているように見えます。そのことを手がかりに、おそらく日本の科学史に残るであろう現在進行中の出来事を注視していきたいと思うようになりました。

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注1)原題は "The Scientific Revolution"(川田勝訳、1998年、白水社)。スティーヴン・シェイピン(Steven Shapin)はエジンバラ学派を代表する一人



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