昨日(4月14日)21時26分頃熊本地方を震源とするマグニチュード6.5の直下型地震が発生した。震源は北緯32.7度、東経130.8度、深さ11 kmで、気象庁はこの地震を「H28年熊本地震」と命名したとのこと。震央に位置する益城(ましき)町では震度7、鉛直方向の最大加速度1580galに達し、死者9名、負傷者1,000名以上となっている模様。被害の全貌がわかるにはもうしばらくかかるであろう。妻の友人が震央近くに住んでいて、無事だと確認できたのは丸1日が経過したつい先ほどの事である。この地震の報道やWeb上での発言に関連していくつか気になることがあったので、以下にメモを残しておく。
1)活断層の活動セグメント
気象庁等の発表によると、この地震は日奈久(ひなぐ)断層帯と布田川(ふたがわ)断層帯の接合部付近を震源として発生しているそうである。マスコミの報道でしばしば引用される活断層分布図は、地震調査研究推進本部によるものであるが、説明書を良く読めばわかるように、布田川断層帯の西側3分の2は地表活断層の存在しない実体のはっきりしないもので、重力異常などから「地下活断層」の存在が想像されているだけのものである。そのため、図ではその部分が幅の広いグレーの帯として描かれている。下にその図の一部を拡大して示した。
図1 地震調査研究推進本部による布田川ー日奈久断層帯の分布図
ところがこのグレーの部分を、他の実体のある活断層より太い濃い赤色で塗色した図が出回っている。これではまるでそちらの方が活断層としての「実力」が上であるかのように誤解されない。昨日来、誰か注意する専門家はいないのかと不思議でならない。
活断層の正確な分布図として統一されたものは存在しないが、最新のデータをまとめたサイトとしては産総研地質情報総合センターの「活断層データーベース」がベストであろう。同センターが運用している地質図Naviでは、そのほとんどを地質図に重ねて表示させることができるが、孤立した活断層で10km未満のものは割愛されていることがある。活断層研究のコミュニティはいくつか異なるものがあって、たとえば防災科学技術研究所が運用しているHi-net高感度地震観測網の公開サイトが使用している分布図は、産総研の編集したものと異なっている。
下に示す図は、地質図Naviによる地質図に活断層と重力異常のコンターを重ね、さらにHi-net の余震分布範囲を図示したものである。
図2 産総研地質図Naviによる地質図と余震分布域
この図をみると、余震分布から予想される震源断層は布田川断層帯から日奈久断層帯へとゆるく屈曲しながら連続して動いているように見える。それが事実であるなら、従来の活動セグメントの認識は、地震調査研究推進本部よるものも、産総研によるものもの、どちらも正しくないということになる。活断層の活動セグメントの認識はそれくらい難しく、これまで出回っている図もあまり当てにはならないと考えた方が良いだろう。
なお、2000年6月8日にほぼ同じ場所でM4.9の地震がおこっており、やや詳しい解析もなされている点は注目して良いかもしれない。
2)布田川ー日奈久断層帯の地体構造論的位置づけ
今回動いた活断層を中央構造線の一部とする報道があったが、その認識は大変難しい問題を多々含んでいるので、整理しておきたい。中央構造線の多義性の問題については、こちらでも簡単に触れたが、九州に至るとさらに複雑化する。以下に示す図3は、四国西端から九州にかけて分布する構造線を図示したものである。
図3 九州における構造線の分布
中央構造線の発生時期は白亜紀の中頃までさかのぼることがわかっているが、それより古い可能性もあって、まだよくわかっていないことが多い。いずれにしても、四国から紀伊半島にかけての部分では、西南日本外帯の三波川変成帯(南側)と西南日本内帯の和泉層群(北側)が接している。三波川変成帯は白亜紀後期に海洋プレートの沈み込みによって形成された低温高圧型の変成帯で、和泉層群はやはり白亜紀後期に中央構造線の運動によって形成された横ずれ堆積盆(pull-apart basin)の浅海・汽水相の砂岩主体の地層である。
四国の和泉層群の西端部は愛媛県伊予市に分布することが知られているが、その西方延長は伊方原発の建設時および最近の再稼働申請に向けた調査によって、佐多岬の北岸をかすめた海底下に伏在していることがわかっている。佐多岬の陸上部は全て三波川変成岩が分布しているので、図3に示すように、この部分の中央構造線は伊方原発をかすめた沿岸部付近を通ることになる。
ところが、九州へ至ると泉層群の西方延長と考えられている後期白亜紀の大野川層群が臼杵市の辺りに分布し、その北側の佐賀関半島に三波川帯の結晶片岩類が分布し、南北が逆になっている。両者の間には南傾斜の佐志生(さしう)断層があって、これは、本来低角度で北へ傾斜していた中央構造線が褶曲によって南傾斜になった部分と考えられている。佐賀関半島の西方で三波川帯の延長は途絶えるが、佐多岬から佐賀関半島へ至る三波川帯をそのまま西へ延長した長崎に白亜紀後期の結晶片岩の孤立した分布が知られており、これを三波川変成岩に対比する考えがある。この場合の中央構造線は、おおよそ、松山ー伊万里構造線付近を通ることになるが、これ自体は実体のはっきりしないものである。
一方、臼杵の大野川層群を切って臼杵川火成岩が細長く分布する部分を構造線ととらえ、その西方延長が八代地域の秩父帯と肥後帯の境界部に至るとの考えから、古くより、臼杵ー八代構造線が提唱され、これが本来の中央構造線であるとする考えも根強く残っている。さらにまた、中央構造線活断層系と一括されるものは、伊予灘セグメントまでははっきりしているが、伊予灘においては、本来の中央構造線から北へ数km 離れたところを通っている。別府湾の活断層帯を経て、その西では大分ー熊本(構造)線が提唱されており、九州における第四期の中央構造線であるとする考えもあり、その西方延長がこの度の布田川ー日奈久断層帯へ連続するとされている。ただし、大分ー熊本(構造)線もまた、実体のはっきりしないものである。
このように、九州における中央構造線は、その歴史性の複雑さからまだわかっていないことが多く、定義さへはっきりと定められていないので、「中央構造線」という言葉を用いた議論には固執しない方が良いだろう。