毎日新聞の日曜日朝刊に連載されているコラムに『時代の風』というのがある。2010年7月から続いているが、2012年5月20日からは執筆陣に京都大学の山極寿一氏が加わり、翌週5月27日には、ジャック・アタリ氏が寄稿したりもして、充実した企画となっている。
私は、特に山極氏の論考を楽しみにしてきたのであるが、例えば昨年12月16日の「暴力で平和維持の誤解」と題したコラムでは、ご自身の専門である人類進化論「ゴリラ学」についての最新の知見をもとに、「戦うことは人間の本性であり、社会の秩序は戦いによって作られてきた」とするレイモンド・ダートやコンラート・ローレンツによって唱えられ20世紀の人類観に多大な影響を及ぼした学説の誤りが説かれていて、短いながらも大変読み応えがあった。
続いて注目したのは、同氏による本年5月5日の「作り手による『物語』」と題する論考である。「多様な視点から解釈を」という副題の付けられたこの論考は、次の書き出しで始まる。
芥川龍之介の作品に「桃太郎」という短編がある。桃太郎がサル、イヌ、キジを連れて鬼ケ島に征伐に行く有名な昔話を鬼の側から描いた話だ。豊かで平和な暮らしを突然たたきつぶされた鬼たちがおそるおそる、何か自分たちが人間に悪さをしたのかと尋ねる。すると桃太郎は、日本一の桃太郎が家来を召し抱えたため、何より鬼を征伐したいがために来たのだと答える。鬼たちは自分たちが征伐される理由がさっぱりわからないままに皆殺しにされてしまうのである。笑い話ではない。つい最近まで、いや現在でもこれと同じことが起きていないだろうか。私が子どもの頃、アメリカのインディアンは白人と見れば理由もなく襲ってくるどう猛な民族で、力を合わせて撃退し滅ぼすことが美談とされていた。アフリカのマウマウ団と言えば、呪術を用いて人々を暗殺する危険な集団で、平和な暮らしを守るために撃退しなければならない悪の根源と見なされていた。
そして、そうした見方に何の疑いも抱かずにいたのは、「私」が物語を作った側にいたからに過ぎないのであり、事実に照らして誤解を解き、別の側からの視点にたてば、全く異なった物語が見えてくると説き、次のように続ける。
今もこうした誤解に満ちた物語が繰り返し作られている。9・11の後、アメリカはイラクが大量破壊兵器を持ち世界の平和を脅かすと決めつけて戦争を始めた。アルカイダはアメリカ人をアラブの永遠の敵と見なして自爆テロを武器に戦うことを呼びかけている。イスラエルとパレスチナも互いに相手を悪として話を作り、和解の席に着こうとしない。どちらの側にいる人間もその話を真に受け、反対側に行って自分たちを眺めてみることをしない。
そして最後は、次のように締めくくられる。
言葉の壁、文化の境界を越えて行き来してみると、どこでも人間は理解可能で温かい心を持っていることに気づかされる。個人は皆優しく、思いやりに満ちているのに、なぜ民族や国の間で理解不能な敵対関係が生じるのか。グローバル化した現代、私たちはさまざまな地域や文化の情報を手に入れることができるようになった。物語を作り手の側から読むのではなく、ぜひ多様な側面や視点に立って解釈してほしい。新しい世界観を立ち上げる方法が見つかるはずである。
見事な論考だと、読み終えた直後は思ったものである。しかし、芥川版『桃太郎』で最も印象深い最後の場面の記憶がよみがえるにつれ、むしろ次第に違和感の方が強くなってきた。山極氏によると鬼ヶ島の鬼達は皆殺しにされたことになっているが、そうではないのである。芥川の『桃太郎』の最後は次のように書かれている。
日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々と故郷へ凱旋した。-- これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訳ではない。鬼の子供は一人前になると番人の雉を噛み殺した上、たちまち鬼が島へ逐電した。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。桃太郎はこういう重ね重ねの不幸に嘆息を洩らさずにはいられなかった。「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます。」犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜しそうにいつも唸ったものである。その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。・・・人間の知らない山の奥に雲霧を破った桃の木は今日もなお昔のように、累々と無数の実をつけている。勿論桃太郎を孕んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢へもう一度姿を露わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。・・・
大正13年に書かれた芥川版『桃太郎』の終章は、見事にこの21世紀の世界の状況を予言していて、唸ってしまうのだが、山極氏が『桃太郎』の中で最も重要とも思われるこの終わりの部分にふれなかったのはなぜだろう。
まず、山極氏は、その論考で鬼が「皆殺しにされてしま」ったと、不実の記述をしていることから、単なる字数制限の問題ではなく、故意に触れなかったものと推測される。鬼が皆殺しになっていればその後の顛末に触れなくてすむからだ。ではなぜ山極氏はそうまでして、この、最も重要な最後の場面に触れないようにしたのだろうか。
芥川はもちろん、山極氏が指摘するように、物語の作り手の側とは異なる視点、つまり「原作」とは逆の、鬼の視点に立って物語を再構築することで、この世界に全く異なった風景が現れることを示したかったに違いない。そのうえで、桃太郎の行動に託して権力者の横暴が描かれ、鬼の末裔達の行動に託して、権力者の横暴の、その理不尽さに応じた被抑圧者の抵抗のありようが、ある意味当然の成り行きであるかのように描かれている。
芥川は、テロリズムによって怨念をはらそうとする鬼ヶ島の末裔達の行動を、否定も肯定もしておらず、ただ淡々と、「当然、そうなるだろう」というふうに描いていて、そのことが、1世紀のスパンで世界の行く末を見抜いていたとの感嘆の念を呼び起こすのである。こう考えると、最後尾の八咫鴉(やたがらす)の登場する取って付けたような段落も、まるでこの世の掟でもあるかのような成り行きの、その「自然さ」を強調するために、実に周到に準備されたものとみることもできる。
こうした描写は、「ゴリラ学」の成果によって構築された山極氏の人類観と、一見、対立してしまう。冒頭に引用した、山極氏の昨年12月16日付の論考の方は、いわば「桃太郎論」の伏線となっていて、人類の祖先達を社会文化史の側面から科学的に研究した成果をもとに、かれらの本性が決して戦いを好むものではなかったことが論証され、それまでの人類観の誤りが指摘されている。その上で山極氏は、「物語を作り手の側から読むのではなく、ぜひ多様な側面や視点に立って解釈してほしい。新しい世界観を立ち上げる方法が見つかるはずである。」と結論するのである。
もともと山極氏の問題意識は、理不尽な加害行為がおこる根本的な原因であるところの「物語」をつくった首謀者の存在する背景などにはなく、そうした加害行為を容認し、荷担してしまう我々「庶民」の問題として、「物語」を作った側の視点から抜け出せずにいるのはなぜかというところにあり、その限りにおいて、山極氏の理路に本質的な齟齬は認められないし、むしろ頷けるところの多い論考である。
しかしここでひとつの疑問が生じる。ではもし逆に、ゴリラたちがかつて考えられていたように凶暴な猛獣であれば絶滅させてもかまわないという考えは正当化されるのであろうか。人類の祖先たちが戦いを好むものばかりであることが事実であったとしたら、山極氏の結論は無効になるであろうか。決してそうではない筈だ。ゴリラの本質がどうあろうと、人類の祖先がどうあろうと、それらについての科学の成果とは独立に、我々は倫理的な判断を下すことができなければならない筈だ。その際にはもちろん、ゴリラや人類の祖先達の文化史についての研究成果を参考にした方が良い場合もあろうが、それらは、こうした方面での結論にいたる優先的な条件ではない。
山極氏は、ネイティヴ・アメリカンが「理不尽」な誤解を受けたとしつつ、中東情勢については、いわば「どっちもどっち論」を展開していて、この点で芥川の『桃太郎』の描写とはすれ違いがある。山極氏の「どっちもどっち論」は、芥川が描いた非対称性を、単に一方の側からみた「物語」にすぎないと相対化し、無視することで成立する。このような引用の態度は芥川に大変失礼ではないかと思うのであるが、それは、論拠として科学の成果を最優先しようとした結果なのではないか。私がそう考えるのは、山極氏のあまりにも簡潔に過ぎる中東情勢の「どっちもどっち論」が、この方面について蓄積されてきた多くの社会学的、倫理学な研究の成果をあっさりと無視してもいるからだ。
山極氏に限らず、多くの科学者たちの陥りやすい過誤は、まるで科学の成果こそが、倫理・道徳について議論し,人々の多様な価値観をすりあわせる際にもなにより優先されねばならない論拠になり得るかのごとく錯覚してしまうことであろう。私自身、そもそもこのことには、山極氏の昨年12月16日付の論考を読んだ時点で気づくべきことだったのだが、それができなかった。
世の中に生起する問題には、それにどう対処すべきかを考える際に科学的な論拠を必要としないものがある。逆にそこをまちがえると「科学」が悪用される場合さえあることを、科学者は肝に銘じる必要があるだろう。
Sivad氏の毎度の呟きは、そのことを端的に指摘している。
「根拠のない差別」がダメなのではなくて、「差別」がダメなのです。そこをまちがえると優生学まっしぐらです。