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Channel: さつきのブログ「科学と認識」
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科学に価値論的な判断を下す能力はないのに、テーマの選択は価値判断によってなされる

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 togetter:なぜ「無関係」と言い切るのか。のコメント欄を読んで、暗鬱な気分になる。これをまとめたgeophysicsさん同様、「油断しているとどこかに連れて行かれそう」な気分である。

 こうした問題に臨む牧野さんの基本的な考えは、既に14年前、岩波の「科学」1999年2月号の「読者からの手紙」欄に掲載された下記記事に要約されている。


 結論だけを引用しよう。

 では,科学者,技術者に,今何が求められているのだろうか.科学者や技術者が,今まずおこなうべきことは,科学的,工学的にいえることはどこまでかということを社会に対して示すことではないだろうか.もちろん,確実に危険があるともないともいえないわけで,それでは現実の判断の役に立たないという批判があるかもしれない.

しかし,結局のところ,科学者の提供できるものは,判断そのものではなく判断のための材料でしかない.なにが望ましいかという判断は,不確実性からくるリスクも含めて,実際の当事者がするべきものなのだ.その材料をていねいに提供することこそが,いま,科学者に求められている知的努力だと思う.

 この、「科学者の提供できるものは,判断そのものではなく判断のための材料でしかない」に完全に同意する。同じことは私もここで、「線引きを、危険度70%でやるか80%でやるかという問題で、その危険度の数値を出すのは科学ですが、どこで線引きするかは、価値論です」と書いた。

 牧野さんの「なにが望ましいかという判断は,不確実性からくるリスクも含めて,実際の当事者がするべきものなのだ」の部分にも同意するが、ここで問題を難しくしているのは、科学者そのものが「当事者」になってしまっているからなのだろう。実際、行政手続上のリスク判断を迫られる場合にも「有識者」として科学者が招集される機会は多い訳で、そこにその科学者自身の価値論が忍び込んでしまうことは不可避とも言えよう。早野さんのようにボランティアとして社会的問題の解決にコミットしている科学者にとっても、個別の科学の成果が目の前の現場にとって役に立つものであるかどうかの判断を優先することは当然のように考えられがちだ。

 しかし、「現場にとって役に立つ」が、「現場の人々にとって役に立つ」を意味するとすれば、それは価値論的判断である。牧野さんが言うように科学にはそうした判断を下す能力はない。そうしたことをあまり考えたことのない人の中には、特定の科学の成果が社会に役に立つかどうかを科学的に判断することは可能だと誤解している人も多いのかもしれない。

 やや古い記事を例に出して恐縮だが、例えば片瀬久美子さんの「warblerの日記」にある「科学についての概説」の冒頭に「科学の目標は「自然(nature)」を調査して理解し、そこで起こる出来事を説明し、そしてこれらの説明をみんなの役に立つ予測に用いることです。」とある。一方、末尾のまとめには、「◇科学では、美醜や道徳的な正しさなどの真偽の判定をすることはできません。◇社会において、科学者は判断の材料となる科学的な知見を提供しますが、最終的な社会的な判断は科学者のみでされるものではありません。」と書かれている。ここには、科学者らしからぬ不徹底が表出しているが、これが昨今の科学者の平均的な考え方なのかどうか、私にはわからない。

 確かに、科学的な課題の追求にとって役に立つかどうかを科学的に吟味することは可能である。一方で、それが人々の役に立つかどうかが別問題であるのは、この社会を構成する人々の価値意識が多様だからである。相対多数の人々の役に立つことは、<ほぼ例外なく>、別の少数の人々の意に沿わないことになる。そこを調整する能力は科学にはない。それは政治の役割だ。この<ほぼ例外なく>の部分に納得しない人は、ほぼ例外なく少数の人々の権利を無自覚に侵害してしまいがちな人である。

 件の問題に即して言えば、発端となった福島県と農水省の「放射性セシウム濃度の高い米が発生する要因とその対策について」と題する報告書の図4(土壌中の放射性セシウム濃度と玄米中の放射性セシウム濃度の関係)について、早野さんは、「全く相関しない」、「無関係」と書いた。そして、牧野さんから相関があるとの指摘があって話題になると、「平均値見たら若干相関あるんじゃないかと言っている向きもあるようだが,現場では役に立たない.本質を外した議論.平均から大きくハズレて,低汚染度の田んぼで高汚染米が出来るのは何故かの解明が大事(カリとの逆相関など)」と反論する。

 要するに、相関はあっても、その相関から大きく外れているデータに注目することこそが稲作農業の現場にとって役に立つ視点であり、カリウム濃度との強い逆相関に比べれば無視しても良い程度だと言う訳でああろう。しかし、件のtogetterのコメントにもあるように、土壌中のセシウム濃度と玄米中のセシウム濃度は無関係と断言するなら、水田が放射性物質で汚染されたことに対して保障を求めようとする人々の権利を侵害しかねない。あるいは、そのような保障を求める権利があること自体を覆い隠してしまうよう作用しかねない。

 科学の役割は、事実はどうなのかを徹底して明らかにすることに限られ、そこから逸脱した全ての価値判断は政治的なアピールに他ならない。牧野さんが、「これはすでに科学者であることを放棄して活動家か政治家かなにかになった、ということかなあ?」と呟いたのは、意地悪な挑発とも受け取れるが、「活動家や政治家」が貶めの言葉として有効である筈はない。早野さんとしては、自らの価値判断に自信があるなら、「政治的判断」であることを堂々と主張したら良かったのではなかろうか。

 さて、社会にコミットしようとするあらゆる言説は政治的である。つまり、社会的問題の「当事者」になったとたん、科学者ではなく一人の政治的市民になっていることを自覚しないといけない筈なのだが、その自覚もないまま科学者面をして一つの判断を発信すると、科学やその成果そのものがねじ曲げられてしまうことだって起こり得る。そして、そのことが実際に起ころうとしていた訳である。

 ところで、たとえ科学が判断のための材料しか提供しないものであっても、何かの判断のための材料を提供しようと意図してなされる場合には、その「何か」を<選択する>行為そのものは、個人的にせよ社会的にせよ、なんらかの価値判断によってなされていると考えてよい。社会の隅々まで政治によってコントロールされるようになった近代以降、科学もまた、その存在自体が政治的であると言ってよいかもしれない。

 そのことは、もっぱら職業科学者(科学労働者)によって営まれている近代科学の現場で、個々のテーマがどのように選択されているかを考えればわかるだろう。端的に言えば、社会的に許されているテーマだけが科学の俎上に上がっている訳である。そしてまた、社会的要請の強い分野ほど、多額の予算が配分され、強力に推進されるということになる。逆にまた、社会的に不要とみなされた分野はお取りつぶしになることだってあり得る。そうした判断は常に政治的である。

 この点は、先に引用した牧野さんの「科学」への手紙では触れられていない視点だが、やや関係すると思われる考察は「科学の発展の意味」に見ることができる。そこでは、「物理学の研究者の多くが持つ素朴な科学の発展のイメージは、相対主義からの批判に耐え得るものではない」としつつ、一方で、ラトゥールは科学の発展のプロセスについて時系列的な記述しかしていないとして、「科学の発展」のメカニズムを、ファイヤーアー ベントのように、もっと徹底して方法論の合理性以外のところに求めようとする試みがなされている。その辺りをベースに件のtogetterにおける牧野さんの主張を読み解けば、問題の本質が見えてくるだろう。


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