「福島のエートス」という取り組みをめぐって意見が対立している。主催者のウェブサイト(ETHOS IN FUKUSHIMA)にある説明(エートス(ETHOS)って何?)によると、その趣旨は次のようなものであるらしい。
住民が自主性を持って、生活と環境の回復過程に関わって行く活動。地域住民の生活スタイル、食生活、農林水産業での手法、工業生産、社会的または法的制約、援助、補償体制等々を考慮し、住民のそれぞれの視点を共有しながら問題に対処するのが特徴。地域に密着した、現実的な放射線防護文化の構築。住民自身が自らのおかれた状況を理解し、計測し、自分なりの解釈をする事ができるようになれば、個人・集団で、放射能汚染への対応をどう改善して行くのかを自分たちで見つけ出し「現実的な放射能との共生」が可能になる。
同じサイトの、対話集会の記録には次の記述もある。
(5) エートスとの出会い〈田人での勉強会→住民参加の必要性〉→ICRP111付属書の「エートス」プロジェクトの存在を知る。→日本語資料JAEAレビュー2010-022「原子力緊急事態時の長期被ばく状況における放射線 防護の実施と課題」を読む。出発点は、「自分たち自身を、福島を、見捨てない」を、ひとつ、形にしてみたいということ。見捨てないは、ひとつめに、十分な情報と十分な支援にもとづいて、住民自身が、避難/残留を判断すること。ふたつめに、そこで暮らすことを選んだ住民には、住民自身が主体的に判断しながら暮らせる態勢を作り上げる事。
これに対する批判は、主に、チェルノブイリ原発事故の後で立ち上げられたベラルーシのエートス・プロジェクトとの関係で論じられている(例えば下記)。
コリン・コバヤシ氏によるエートス・プロジェクト批判:
批判は三点に要約される。
第一に、この運動のモデルとなったベラルーシのエートス・プロジェクトはフランスの原子力ロビーが推進したもので、原子力産業界の利益が損なわれることのないように意図されたものである。その中心的担い手であったジャック・ロシャール氏が頻繁に接触している「福島のエートス」もまた、原子力産業界が国際的に結託して関与・暗躍した結果現れたものである。
第二に、十分な情報を提供した上で住民自身に判断を委ねるとしつつ、ベラルーシのエートス・プロジェクトでは、健康被害についての重要なデータが実際に隠蔽されてきた。
第三に、ベラルーシでは、エートス・プロジェクトが開始された頃から逆に健康被害が拡大した。結局これは人体実験だったのである。
以上の批判はベラルーシのエートス・プロジェクトについては有効かもしれないが、ジャック・ロシャール氏が接触していることのみをもって「福島のエートス」と原子力産業界の密接性を主張するのは難癖にすぎないと感じる。その出自について憶測をめぐらしたところで、主催者の安東量子氏自身が明確に否定し、その直接的な証拠もない以上、無意味である。原子力ロビーとの結びつきに拘った批判は、被災住民自身によって忌避されるだろう。もちろん、ベラルーシのエートス・プロジェクトについての情報は、「福島のエートス」がそれをモデルとしている以上、無視してよいものではない。
私自身、避難か残留かの選択は被災住民自身の自由意志に委ねられるべきで、その判断は尊重されなければならないと主張してきた。こんな記事も書いたくらいである。汚染地域に残留することを決断した被災住民への支援の必要性については議論の余地はないだろう。実際、被災地の住民を支援する取り組みは、除染や、放射能・放射線量測定や、健康診断・相談など様々になされている。
そうした中で、なぜエートスだけが批判されてしまうのか。おそらくそれは、この事業が「エートス」という倫理・道徳的な意味の付帯した名を持つことから、個々の課題に対応した被災者支援の事業とは異なり、ひとつの、包括的な戦略をもったムーブメント(運動)とみなされているからであろう。安東氏自身が、ベラルーシのエートス・プロジェクトを活動のモデルとし、ICRPの放射線防護指針を規範としていると述べ、ある種の教育・啓蒙的な活動を展開してきたことから、そう判断して良いと思う。
1)過度の自己責任論
被災住民自身による判断が強調されることで、過度の自己責任論に陥る危険性がある。この先、低線量被曝による晩発影響が疑われる事象が生じても、それを訴える声が、コミュニティの中で自粛されたり、圧殺されたりはしないだろうか。イラク人質事件に際しての自己責任論の大合唱を思い起こすとき、結果責任は全て被災住民自身が負わなければならないとの主張が幅を利かすであろうことは想像に難くない。
そのとき、この運動の「責任者」はどのように責任をとるつもりであるのか、予めそのことは告知しておいた方が良いと思う。支援者達の顔ぶれをみると、このプロジェクトを実施している地域での放射線被曝による健康被害は絶対におこり得ないと考えているようであるから、逆にそうした告知は簡単になせることではないかと思う。尤も、そうすることで、自己責任を引き受けることから出発するというこの運動の本来の理念が損なわれてしまうかもしれない。この運動自身が本来的に内包する問題である。
関連して付け加えるなら、「安全か危険か判断を下すのは住民自身」「専門家の先生に『判断は差し挟まないでほしい』と依頼しました」としているが、「勉強会」に招く講師・専門家を選択しているのである以上、結果的に判断基準は選択された専門家の見解に委ねられることになる。そうであるなら、講師の選択もまた、主催者ではなく、被災住民自身の合意によってなされる必要がある。都合の悪い事実を隠すということもあってはならない。例えば次の記事なども大変気になることである。
2)強いられた選択(奴隷の選択)という事実から目をそらす
避難か残留かの選択は被災住民自身の自由意志に委ねられるべきであることは論を待たない。しかし、「自由意志による選択」という一面を強調して、そこで終わってしまうなら、その選択が、実は強いられた選択(奴隷の選択)であるという事実から目をそらす役割を果たすだろう。
誰であっても、放射能で汚染された土地で暮らしたくはないであろうし、何らの援助も保障もないまま見知らぬ土地で避難生活をおくることもまた極力避けたいと願うであろう。本来、どちらも選択したくはないその二択を無理強いされているという現実について目をそらさずにいようとするなら、この「奴隷の選択」を強いている元凶は何であるのかということが当然のこととして追求されなくてはならない。そのことは、被災者であろうとなかろうと、この社会を悪しきものから護り、まっとうに発展させたいと願う全ての成人市民がなすべき義務である。
「エートス」が、ひとつの運動として被災住民を誘導する性格のものであるとしたら、そうした視点の欠落は、「奴隷の選択」を強いる元凶を免罪することに繋がり、その元凶を告発する最大の権利者である被災者自身から、その権利を奪い去る役割を果たすことになるだろう。たとえ原子力ロビーと何らの繋がりもない運動であったとしても、ベラルーシのエートス・プロジェクトと理念を共にするものである以上、結果的に、原子力ロビーの思うツボにはまってしまうのである。
3)自然災害と錯覚させ、責任の追求という課題を放棄させる
これは、上記2)とも関係するが、その強いられた選択を、止むにやまれぬ選択、他にどうしようもない選択と強調することで、本来人災である放射能汚染という事態を、まるで、どうしようもなく起こってしまった自然災害であるかのように錯覚させるよう作用しないだろうか。
「原発を廃止しても推進しても、今ある飛散したセシウムの量はかわりません。あなたは、被曝を低減するのに協力するのか、しないのか・・・」
あるエートス支援者による、一種の脅迫であるが、この言説からは、放射能汚染という事態が人災であるとの認識は微塵も感じられない。この先原発を推進したら再び悲惨な事故が繰り返され、放射性セシウムはさらにこの地球を覆い尽くすかもしれないではないか。そうなれば、今は被災者ではない者も、やがて被災者になる。
広島・長崎の原爆被ばく者達が、二度と同じ過ちを繰り返さぬようにと核廃絶の運動に立ち上がったのは、人災との認識にもとづく。被団協が、核廃絶の運動と被ばく保障を求める運動とを一体のものとして取り組んできたのは当然の倫理的帰結であった。たとえば水俣病では、水銀汚染の中でいかに暮らしていくかということを運動の中心に据えることなど、そもそも発想され得なかった。沖縄では、米軍機の騒音の中で、「いかにストレスなく暮らしていくか」といった、あるいは墜落などの危険の中で、「いかに自己防衛するか」といったことに重点を置く運動が発想されよう筈もないのと同じである。まさか、オスプレイを「正しく怖れよ」などと言う訳でもあるまい。
日本の原子力ロビーからは、東電原発事故は想定外の津波のせい、つまり天災であったとの宣伝が盛んになされているとき、そこに与しようとしているのかとの疑念は拭えない。レベル7の原発事故によって、この地球がグローバルに汚染されてしまったことから、日本人全体が、世界の人々に対して負っている責任というものを考えない訳にはいかない。