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小泉純一郎元首相の脱原発論について思うこと(追記あり)

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 このところ小泉元首相がしきりに脱原発論を唱えているとの報道が続いている。昨日(10月5日)の毎日新聞朝刊の社説や、本日のTBS サンデーモーニングでも採りあげられていた。毎日jpに掲載された「社説:小泉氏のゼロ論 原発問題の核心ついた」から前半を引用する。

 核心をついた指摘である。政界を引退している小泉純一郎元首相が原発・エネルギー政策に関連して「原発ゼロ」方針を政府が打ち出すよう主張、注目を浴びている。
 使用済み核燃料問題などを正面から提起し、政治が目標を指し示すことの重みを説いた小泉氏の議論にはもっともな点がある。安倍内閣が原発再稼働や輸出に前のめりな中だけに、原発からの撤退を迫る忠告に政界は耳を傾けるべきだ。
 かつて「改革の本丸」と郵政民営化に照準を合わせたことを思い出させるポイントを突いた論法だ。小泉氏は1日、名古屋市での講演で「放射性廃棄物の最終処分のあてもなく、原発を進めるのは無責任」と指摘、福島第1原発事故の被害の深刻さにもふれ「原発ほどコストの高いものはない」と政府・自民党に原発ゼロにかじを切るよう求めた。
 原発をめぐる小泉氏の主張は毎日新聞のコラム「風知草」(8月26日付)が取り上げ、強い関心を集めるようになった。東日本大震災後、原発政策に疑問を深めた小泉氏は8月中旬、フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」を視察、使用済み核燃料を10万年も地中に保存するという処理策に「核のゴミ」は管理不可能だと確信したのだという。
 小泉氏が今後、何らかの政治的な行動を取るかは不明である。しかし、指摘は真剣に受け止めるべきだ。
 まず「トイレのないマンション」と言われる核廃棄物問題について、小泉氏が言うように、政府は責任ある答えを示していない。使用済み核燃料からプルトニウムを取り出し再利用する核燃料サイクルは、その要とされた高速増殖原型炉「もんじゅ」実用化のめどが全くたたない。再処理工場(青森)の稼働を急いでも、余剰プルトニウムがたまるばかりだ。私たちはこの点からも原発推進の無責任さをかねて主張してきた。
(後略)

 文中にある毎日新聞の8月26日付「風致草」の記事が話題になって以来、このことを巡って、脱原発を求める運動の中で様々な異論が対立しているようなので、私見を述べておきたい。結論を先に書いておくと、小泉氏は本気で脱原発を願っており、脱原発派は、既に政界を引退した個人として接し、(慎重に)利用した方が良いと私は考えている。

1)小泉氏の脱原発論は本物か
 これまでの小泉氏の経歴やその主張をふり返ると、彼は、基本的には嘘をついたことがないし、(大変な悪政ではあったが)政治家としての公約を実直に守り、実行してきた。ただし、既得権益を「ぶっこわして」構造改革を断行すると言いながら、こと原子力村についてはこれに切り込むどころが、逆に小泉内閣の初代経産相として原発推進派の平沼赳夫氏を起用し、プルサーマルを盛り込んだ「エネルギー基本計画」を策定したりもしている。しかし、政治家として現役にあった時代に原発について積極的に何事かを発言するということはなかったのではないか? おそらく当時は眼中にないままデフォルトとして官僚主導で推進されたのではないかと思われる。それが、3.11の東電原発事故を契機に目が覚めたのだろう。

 小泉氏の脱原発論が本物だと判断されるもうひとつの理由は、彼の脱原発論が、使用済み核燃料の最終処分の問題という、原発推進派の最も痛いところを突いて、正面から切り込んでいる点にある。先にリンクした毎日新聞「風知草」によると、8月中旬に原発関連企業の役員達を誘って、フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」と脱原発の進むドイツを視察し、帰国後、記者と次のようなやりとりを行っている。

 --どう見ました?
 「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」
 --今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。
 「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」
 「戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が」
「昭和の戦争だって、満州(中国東北部)から撤退すればいいのに、できなかった。『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか」
 「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック、東日本大震災。ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本がつくりゃいい」

 毎日新聞の社説で「核心をついた指摘」と書かれている通りだ。しかも、(かなり漠然としてはいるが)脱原発へ至る政治的・経済的なビジョンまで語られている。本日のサンデーモーニングによると、3.11後に、小泉氏の中に脱原発への指向が生まれ、オンカロ視察を契機に確信へと変わったのらしい。この点、安全な原発ができない限り反対という橋下大阪市長の「脱原発論」とは本質的に異なっている。

 かつて私は、橋下徹大阪市長(大阪維新の会)は「脱原発」派ではない(2012年2月14日)と題する記事を書いて、橋下大阪知事にいかなる幻想も懐いてはならないとの考えを述べた。その際の理由として、橋下氏は、もともと「平成維新の会」を立ち上げた原発推進派の大前研一氏に心酔しているらしいこと、また、「脱原発」を本気で考えているのならこの間にやるべきことはいくらでもあった筈だが、彼は何一つやってこなかったことなどを挙げた。

 その後の2012年6月、関電の筆頭株主である大阪市の市長として株主総会に出席した橋下氏は、「速やかな原発の全廃」、「発電部門と送配電部門の分離」、「取締役の半減」などを求める大胆な株主提案をおこなったが、事前に関電が株主に発送した「総会招集通知」に記されている株主提案議案では、大阪市の提案に対する取締役会の反対意見が添えられていて、否決されるのは確実視されていた。株主総会での橋下氏の「演説」は、時の空気を読んで人気取りに利用するパフォーマンスに過ぎないものであったと、私は考えている。

 実際、その後に橋下氏が唱えたのは「脱原発依存」に過ぎなかったし、今年度の株主総会では出席してのパフォーマンスさえしていない。橋下氏は、本気になれば行政のトップとしてやれた筈のこと、たとえば、市庁舎等の電力を新電源に乗り換えたり、市として再生可能エネルギーの開発に乗り出したり、得意のtwitterを駆使して本質を突くような脱原発の理念と展望を熱く語ったり等々のことを、この間何ひとつやっていないのである。

 小泉氏と橋下氏の比較は、元首相とはいえ今は政界を引退した個人(小泉氏)と、地方行政のトップであり、国会議員を擁する政党の代表職にある者(橋下氏)という違いを抜きには語れない。

2)政界を引退した個人との共闘の問題
 なにより、橋下・維新は、民主政治にとって害悪のあまりにも多い危険な存在であり、たとえシングルイシューであっても彼らと共闘することによる悪影響は計り知れない。それは、現に橋下氏が、たとえ地方自治体であるとはいえ、行政のトップに立つ人であり、また、国政の場においても橋下氏が代表を務める維新の会が決して無視できない勢力として存在していることからくる。

 一方、小泉元首相はどうかというと、3.11後のことに限れば、既に政界を引退した個人として言論に訴える以外のことは、実際上何もできることはなかったと考えて良い。他に彼にできることがあるとすれば、かつて権力のトップにあった者として、原子力村の闇に触れて掴んだ極秘情報(注1)を漏らすことくらいであろうが、おそらく彼は、もともと原子力には無関心で、そうした情報は何も掴んでいないであろう。

 かつて社会民主連合の副代表であった江田五月氏が、1993年に非自民非共産8党派による細川内閣が誕生して科学技術庁長官になった時、当時の反原発グループの中に、反原発派であった江田氏への期待が広がったのであるが、結局、官僚達の一昼夜のレクチャーで原発推進へ寝返ってしまったという出来事が思い出される。江田氏も、そして盟友である菅直人元首相もまた、極秘情報に類するものは何一つ掴んでいなかったことは、その後の言動で明らかである。

 これらのことを考慮すると、個人として言論に訴えること以外なにもできることのない小泉氏とのシングルイシューでの共闘においては、そのイシュー以外のところへ波及する悪影響というものはあまり深刻に考えなくても良いのではないかと思う。そもそも共闘と言っても、具体的なことを考えれば、たいしたことはできないに違いない。

 残された論点は、これまで原発推進に荷担した「前科」のある者との共闘に道義的問題が発生するかという点であろう。この点は、人それぞれに、3.11の事故によって具体的にどのような被害を被ったかということだけでなく、これまでの国の原発推進政策に対してどのようなスタンスで接してきたかという「個人史」にかかわって、百人百様であろうと思う。
 
 私自身は、小泉氏に、自民党や財界の中にも一定の勢力を占めている「脱原発派」のまとめ役として、多数派形成のためにがんばってほしいと考えている。自らが推進してきたものを一刻も早く廃止するために努力することが、「改心」した者のなすべきことだとも思う。一方でまた、福島の高濃度汚染地域で強制移住・避難を余儀なくされている人々の中には「100代まで呪ってやる」と、許し難く思っている人々も現に居るし、自殺に追い込まれた人も居ることを知っている。そうした人々の想いを全く無視して、小泉氏の「改心」を手放しで喜ぶような態度は慎まなければならないと思う。だからと言って、小泉氏との「共闘」を呼びかける人々を批判しようとも思わない。それはまさに、私自身の「個人史」にかかわってつのる、忸怩たる想いに依っている。

追記(10月30日)
下記のブログ記事は、この問題にかかわって必読です。
小泉氏の脱原発発言」(Arisanのノート、2013-10-17)

ただ一点、文末に、
僕たちは、小泉氏の名の元に行われる「脱原発」という儀礼、欺瞞的な国民統合のための儀礼には、参加すべきではない。
その不参加によって、たとえ「脱原発」という目的からどんなに遠く離れると思えたとしても、これ以上「犠牲」のシステムの存続に手を貸すことは、僕たちには許されないはずである。

とありますが、これは、小泉氏の影響力についての誇大妄想に近いものだと思います。私は、「そもそも共闘と言っても、具体的なことを考えれば、たいしたことはできないに違いない。」と書いたように、彼に大きな期待を寄せる発想自体が荒唐無稽なものだと考えていました。したがって、小泉氏との共闘への不参加によって「脱原発」という目的から遠く離れるという危惧もまた、杞憂にすぎないものだと思います。社民党が本気で共闘を考えていたことには少々あきれましたが、そうした共闘が成立しないことは最初から明らかでした。批判しなくても、そうしたことは現実には成立し得ない訳です。

関連することを「「思い出したこと」の続き」と題する10月25日の記事にも追記しました。

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注1)核兵器開発への道を温存するためにこそ原発全廃への抵抗が続くだろうとの考えがあるが、日本は、核兵器開発のために既にあり余りほどのウランやプルトニウムを保有しているので、それは誤認であろう。逆に、原発が全廃になっても核兵器開発への警戒を解くことはできないということになる。

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