twitter上での下記のやりとりを拝見して思うところあり、急ぎ記事をあげておく。
発端はたぶんこれ:
生涯積算での、事故による追加被ばくを、その住人が法で許容された範囲内でどういう生活をしようとも(山菜を好もうと山でキャンプを楽しもうと)、必ず100mSv未満に留まらせることができる、という設定を国はすべきなんだよ。その大枠を守った上でなら、中でどう過ごすかは個人の問題でよい。
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(補足自己レス省略)
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ICRP111では、個人の『年間の』『実効線量』で管理せよ、と書いてあります。実効線量だから、個人あたりの実測。平均の被曝は低いことは分かっているので、個人を実測しないと、誰が高いのか分からない。
私は防御に関する国の施策の方針について考えていました。また、危険派の人たちの考え方をある程度整理するつもりで考えてもいました。それがICRPと合わないということだと、ICRPの考え方(だけ)では、うまく行かないかもしれない、ということかと思います。
それは、何か根拠があって言っているの?私の言っていることは、ICRP111と同意見で、実際に早野先生のデータをみても、少数の高い人を見つけ出すためには、個人線量を測るしかないのは明らかだと思う。
一部の高い人を、個々に測って探し出すのではなく、誰がどのように行動しても高くはならないように政策で枠をはめるべきだ、という話を、私はずっとしています。つまり場所の安全を確保すること、こそが政治の仕事だと言ってるのです。
(下線は引用者による)
上記は実際の議論をかなり省略したもので、多様な論点が含まれているけれども、ここで採りあげるのはタイトルに書いたこと。つまり、ある性質が現象の属性なのか、空間(場)の属性なのか、物質や個人の属性なのかを区別して議論することの苦手な人がいるというはなし。
この例では、その区別ができていないのはbuveryさんであり、放射能で汚染されたある場所に人が住めるかどうかの政策的判断は、その場所の属性(たとえば空間線量)をもとに下されなければならないという水無月さんの主張は、原理的な意味で正しい。個人線量はその個人の属性であり、あくまでその個人の生活習慣を含む健康管理や労災認定などが問題となる場合に参照されるべき数値である。
私は、「エックス線作業主任者」として、ある実験室の管理責任者になっていて、その部屋へ立ち入る際にはフィルムバッジを付けるよう指導している。そこで私に求められているのは、フィルムバッジを付けようが付けまいが、その部屋に誰が立ち入っても被曝することのないよう安全に気を配って管理することである。法令限度を超えて被曝する可能性があると判断される場合には、もちろん、立ち入り禁止にしなければならない。
フィルムバッジは月末に回収され、後日被曝線量が通知される。もし、法令限度を超えて被曝していることが明らかになった場合には、私の管理責任が問われ、罰せられることになるだろう。被曝した当人にとっては後の祭りだ。だからそういうことのないよう、起こりうるあらゆる事態を想定して管理しなければならない。
ここで重要なことは、そうしたいろいろな事態について検討する際には、フィルムバッジが示した被曝線量はほとんど参考にならないということ。実際これまで、私の管理する実験室では、自然放射線をバックグラウンドとして検出限界を超えた過剰被曝は過去一度もなかったが、だからといってその部屋を管理区域から外して良いということにはならない。その空間(場)が管理区域にすべき性質(属性)を備えているからだ。
別の問題で、例えばある放射性物質の管理基準を議論する際には、その比放射能(Bq/g)や、その物質から放射される放射線の種類やエネルギーなど、その物質そのものの属性が参照されるべきであって、ある仮定をもとに算出された空間線量や実効線量などは副次的な数値にすぎない。実際に、原子力基本法関連の政令などによって定められている放射性物質の管理基準は、質量もしくは放射能(Bq)を示す様式となっていて、ある条件で算出される空間線量が「○○μSv/h 以下になるように管理する」などといった形にはなっていない。特定の放射性物質の漏洩について、その総量が問題とされるのは、起こりうるあらゆる事態を考慮すべしとの暗黙の了解があるからだ。
まとめると、空間の管理基準は空間の属性を用いて、物質の管理基準は物質の属性を用いて定められるべきということ。これは、ごく簡単なりくつである。
今、福島では、住民を被曝させても、環境を汚染しても、誰も罰せられないという異常事態が日常と化して人々の感覚をマヒさせ、科学を装った子供だましのような欺瞞がまかり通るようになっている。そこで犠牲になっているのは、今もそこに住む人々であり、かつてそこに住んでいた人々であり、地球環境であり、科学そのものでもある。
ついでに「現象の属性」と「物質の属性」の関係について書いておくと、例えば、「月の高地が形成された年代は、そこから得られたリン酸塩鉱物の年齢を測定することによって明らかになった」というとき、「年代」は、月の高地の形成という現象の属性について、「年齢」は、リン酸塩鉱物粒子という物質の属性について述べている。こうした遣い分けは、その物質の属性から問題とされる現象の属性がどのように導かれるのかといった実体論的な理路へと至るに不可欠で、科学をなす上では必須の手続きともいえる。
しかし実際には、こうした遣い分けを正しく理解できていない科学者は多い。ICRP の委員たちもそうなのかもしれない。