オバマ大統領 広島訪問を日本政府に伝達(NHK NEWS WEB)
5月10日 20時53分
日米関係筋によりますと、アメリカのオバマ大統領は今月下旬に開かれる伊勢志摩サミットに出席したあと、27日に現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問することを決め、日本政府に伝達しました。安倍総理大臣はオバマ大統領の広島訪問に同行する方向で調整に入りました。アメリカのオバマ大統領は、今月26日から2日間の日程で開かれるG7=主要7か国の首脳会合「伊勢志摩サミット」に出席するため日本を訪れる予定で、これに合わせて被爆地・広島を訪問するかどうか検討を進めてきました。ホワイトハウスのアーネスト報道官は9日の記者会見で、「核兵器のない世界」を目指すとするオバマ大統領が就任当初から任期中の被爆地訪問に前向きな姿勢を示していたと指摘したうえで、近く訪問するかどうか明らかにする考えを示しました
(以下、略)
同記事は、安倍総理大臣がオバマ大統領の広島訪問に同行する方向で日程調整に入ったと伝えている。先月4月11日に広島で開かれたG7外相会合では、ケリー国務長官がアメリカの国務長官として初めて広島平和記念資料館(原爆資料館)を訪れている。
さて、このケリー氏が原爆資料館を訪問した際に現館長らが案内しようとしたら日本政府の担当者がそれを拒否し、案内はもっぱら岸田外相によってなされたこと、また、内部では報道陣による取材も拒否されたことをどれくらいの人が知っているだろうか。
ケリー氏は、「すべての人が広島に来るべきで、アメリカ大統領にもその1人になってほしい」と述べたとされる。アメリカ人の多くが原爆投下は戦争の早期終結のために必要だったと考えていることは周知のこと。岸田外相がすばらしい解説をおこなってケリー氏を悔い改めさせたのだと考えるのは、あまりにお目出たい発想であろう。オバマ大統領の案内役は安倍首相がつとめることになるのであろうが、やはりここは被ばく二世でもある志賀賢治館長による案内を働きかけるべきだろう。「原爆資料館長といえば、国内外の来賓も案内する「ヒロシマ」の顔」なのである。
ところで、資料館の東館の常設展示室が2014年9月1日から改修工事に入っていて、今年3月にはリニューアルオープンの予定であったのに、工事が長引いてオープンは10月に延期されたとのこと。これはちょっと解せない。なぜなら、東館には極めて重要な展示があり、その展示をとおして次のようなことが説得的に語られているからである。
つまり、アジア・太平洋戦争中、アジアの多くの国々で日本軍による侵略と残虐行為がおこなわれていたこと、原爆投下前の広島が軍都として栄えていたこと、トリニティー実験場での最初の原爆実験は1945年7月16日であったが、この時点で既に沖縄戦は終結しており、日本軍は主力艦のほとんどを失って反撃能力は皆無に等しい状況に陥っていたこと、トリニティ実験からからひと月もしないうちに、いわば大慌てで広島・長崎に原爆が落とされたのは、ぼやぼやしていたら原爆を落とす前に日本が降伏してしまう「おそれ」があったからである。戦後の世界情勢の解析から、アメリカとしては、戦争終結の前に世界に原爆の威力を見せつけておく必要があった。原爆を使用する「チャンス」はこの時期をおいて他にはない。原爆投下の命令が下されたのは8月2日のことである。原爆の威力を見せつけるため、原爆投下の候補となった都市は通常兵器での爆撃を控え、無傷のまま残しておく必要があった、等々。
アメリカのこのような思惑によって、広島・長崎の20万の市民が一瞬のうちに絶命させられたのである。もちろん広島と長崎が標的とされたのは、軍都としての性格から一般市民への無差別攻撃が多少とも正当化できると考えられたのであろう。
原爆資料館は東館の1階から入場して二階へと巡り、渡り廊下を経て本館展示場へ至るようになっている。東館の、特に1階から入場して最初からしばらくの間の展示物をつぶさに見てまわれば、およそ上記のようなことが理解されるようになっていた。3月にリニューアルオープンの予定であったのが10月に延期されたのは、実は、G7でケリー国務長官やオバマ大統領がここを訪れるのに「配慮」したためではないのかとの疑念は拭えない。本来の展示のままでは、岸田外相や安倍首相がまともに案内することなど不可能だろう。
私は海外からの客人には、日程の許す限り広島を訪れ、原爆資料館を見学するよう勧めてきた。実際に見学した者は例外なく、感嘆のうちに多くを学んだことを語ってくれた。資料館内でよく目にするのは、一つ一つの展示物を食い入るように見つめ、熱心にメモをとる海外からの訪問者達の姿である。可能なら10月のリニューアルオープンを待っての訪問を勧めたい。海外からの訪問客とは対照的に、足早に見てまわる日本人修学旅行生らの様子を見ていると、学校教育の場における「平和教育」の実効性に大いに疑問を抱かざるを得ない。
私はまた、語り部の被ばく者達による「被ばく講話」を幾度となく聞いてきた。のべ人数にするとおよそ10人くらいになるだろうか。その中には館長経験者も含まれるが、その一人から聞いたことで記憶に残っているのは、被ばく者の多くがなぜ被ばく体験を語りたがらないのかということについてである。館長としては、語り部になってくれるよう被ばく者達を説得して回るのだが、彼自身が口を開くのに大きな飛躍が必要であったのだ。
筆舌に尽くしがたい悲惨な目にあって思い出したくないと言えばその通りなのだが、その内実、生き残った被ばく者の多くは、彼ら自身、瀕死の者を見捨てる、生き残るために弱っている者を足蹴にする、皮がズル剥けになった死体を踏みしだいて彷徨う、等々の、通常であれば人にあるまじき行為として指弾されるような修羅場をくぐり抜けて生きながらえたという負い目があるのだ。館長経験者の一人は、それまでの冷静さとはうってかわり、嗚咽をまじえながらそう語ってくれた。掛ける言葉がみつからなかった。